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◎日本製鉄に吸収された住友金属

 大阪市役所がある淀屋橋。江戸時代、米蔵があり日本経済の中心だった。大阪の経済は、戦前まで日本1だった。その淀屋橋に日本の4大財閥の1つの住友財閥の本社があった。

 製鉄大手の住友金属工業は、住友財閥の御三家の1つだった。その住金の凋落を示したのが今年4月1日から「新日鉄住金」の社名を「日本製鉄」に変更したことと株主総会(6月25日、東京都内)だった。

 かつて「鉄は国家なり」という言葉があった。財界総理と言われた経団連会長を3人出し、日本の大企業を新日本製鉄が仕切っていた時代があったからである。

 その新日鉄が「住金」の名を外し、日本製鉄の名を69年ぶりに復活させた。戦前の1934年に発足した「日本製鐵」が、戦後の1950年に財閥解体で八幡製鉄と富士製鉄に分割された。1970年にふたたび合併する。

 新日鉄は、住友金属と2012年に合併して新日鉄住金となったが、7年足らずで「日本製鉄」へと名称を変更し、先祖帰りしたかっこうになった。

60 日本製鉄 復活図
(日経新聞から)

 このようにめまぐるしく社名が変わった。復活した日本製鉄になって初めての株主総会で、取締役13名が選任された。このうち社外取締役3名を除く10名のうち、新日鉄出身者は9名、住友金属出身者はわずか1名だった。

 合併当初は、会長は新日鉄、社長は住友金属から選任された。住友金属には配慮したからである。しかし、今回の株主総会では、住友金属の取締役は、会長、社長、副社長(副社長)にも入れず、常務取締役である。社名を外された上に、役員人事で辛うじて1名が残っただけで、新日鉄が住友金属を吸収したことを鮮明にした。

 住友財閥のルーツは、江戸時代に住友家が大阪に銅精錬所を開いたことである。四国の別子銅山から産出する銅で大きく成長した。1897年(明治30年)、住友伸銅場が創業されたが、これが現在の住友金属になった。

 和歌山製鉄所(和歌山県)と鹿島製鉄所(茨城県)の2大製鉄所を持つとともに、関西財界の中心になり、関西経済団体連合会の会長を出すなど、関西経済に大きな影響を与えてきた。

12 住友ビル
(かつて住友財閥の本社があった住友ビル=大阪市・淀屋橋)

 しかし日本が、東京一極集中が続く中で、住友財閥を形成してきた住友銀行(三井銀行と合併)や住友商事など住友各社が競って本社を東京へ移転。住友金属も新日鉄との合併で本社は東京へ移った。トヨタ自動車が、本社をかたくなに豊田市に置くのは例外なほどである。

 淀屋橋は、“住友村”と呼ばれたほど住友系の本社が集中していたが、今は寂れた。大阪の経済が疲弊した原因の1つが、大阪の中小企業や市民に育てられた住友系大企業、伊藤忠商事や丸紅などの商社、三菱銀行と合併した三和銀行、ゼネコンの一角の大林組、日本生命などが相次いで本社やその機能を東京へ移したことが大きい。

 淀屋橋の一角には、住友財閥の住友本社があった重厚なビル(三井住友銀行大阪本店)が残っているが、かつての賑わいは感じられない。大阪経済の衰退の象徴に見える。

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その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/02 21:17
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