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◎9条改憲は「最後の好機」と桜井よしこ氏 「海ゆかば」を讃える

 「世界で一つの変な憲法の改正は今が最後の好機」と、9条改憲を声高に叫ぶ桜井よしこ氏。戦前の侵略戦争を賛歌した「海道東征」や「海ゆかば」を、「若い世代へ贈る」と持てはやしています。

 これは、桜井氏が今年1月に出版した『問答無用』(新潮社)で、「若い世代へ贈る、『海道東征』や『海ゆかば』」のエッセイで書いているものです。

 「海道東征」の初演は、アジア・太平洋戦争の最中の1940年11月に、東京・日比谷公会堂で行われました。詩人の北原白秋の詩に信時潔が作曲したもので、神武天皇が日向から大和をめざす東征の戦いを描いたものです。

 ♪いざ起たせ 天皇、神倭磐余彦命。
神と座す大御稜威高嶺らせば、八紘一つ宇とぞ

「神倭磐余彦命」とは神武天皇のことで、「八紘一宇」とは「世界を一つの家にする」という意味で、侵略戦争のスローガンになった言葉です。

 神武天皇が東の国々を征服したという「神武東征」は、まったくの神話で、今日の歴史学、考古学からは完全に否定されています。“万世一系”といわれる天皇も、6世紀の継体大王からしか認められないというのが学会の通説です。

修 桜井よし子 問答無用


 「海ゆかば」は、「万葉集」の大伴家持の歌(巻18の4094番歌)から、天皇のために死ぬという部分だけを恣意的に取り上げて、信時潔が作曲したものです。

 ♪海行ゆかば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ

 ラジオで、大本営が日本軍の玉砕を伝えるときに流したものです。奈良時代、聖武天皇が大仏を作ろうとしていた時に、現在の宮城県から金が取れたと伝えられたことを、「賀陸奥国出金詔書歌」として家持が歌ったのです。

 大伴家は、天皇家に仕えた名門貴族でした。飛鳥時代から力を付けてきた新興の藤原氏に対抗するために、天皇のためにどれほど戦ってきたかを示すために、「水漬く屍」「草生す屍」と歌いこんだのです。

修 万葉集 海ゆかば
(中西進・全訳注原文付の講談社文庫『万葉集』の「海行かば」から)

 桜井氏は先のエッセイで、産経新聞主催で2017年4月19日に、東京・池袋の東京芸術劇場で演奏を聴き、関東では戦後初めて「海道東征」が上演されたこと。「感動して涙が出そうになった」と絶賛しています。

 そして、アンコール曲として「海ゆかば」が演奏され、参加者が立ち上がって大合唱になったとほめたたえています。

 ここには、桜井氏が9条改憲を何のために叫んでいるかを如実に示しています。日本で310万人、アジア・太平洋で2000万人以上が犠牲になった戦前の侵略戦争の時代に、歴史を巻き戻そうとしているのです。それは、安倍首相とも同じです。



                        ◇

 「海ゆかば」について、「しんぶん赤旗」が掲載(2007年11月17日付)していますので、参考のために次に紹介します。

 〈問い〉 「海行かば」とはどんないわれがある歌なのですか。民衆の天皇崇拝は昔からあったのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ(『万葉集』)

 これは、大伴家持が越中国の国守に赴任していたときの749年、家持が詠んだ長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀(は)ける歌」の一節です。

 聖武天皇は、大仏に塗る金が奥州で発見されると喜んで、詔(みことのり)を発し、その中で、天皇の「内の兵」(親衛隊)としての大伴、佐伯2氏をたたえ、家持にたいする叙位もおこないました。「海行かば…」はもともと大伴、佐伯両氏に伝わる戦闘歌謡で、詔にもそれが引かれていました。

 藤原氏の進出で、大伴氏の伝統である天皇の親衛隊の地位を失っていた家持は、詔を読み、「天皇はわれらを見捨てていない」と大いに感激、「詔」にある「海行かば…」の言葉を詠み込んで歌をつくったのです。

 この家持の歌に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師、信時潔(のぶとき・きよし)が曲をつけたのが「海行かば」です。1937(昭和12)年、日本放送協会が国民精神総動員強調週間のキャンペーンとして、信時に作曲依頼したものです。

 この歌が、天皇に殉じた戦死者をたたえる歌とされていくのは、42(昭和17)年3月6日、日本放送協会が、真珠湾攻撃の9人の戦死者発表後、初めて放送してからです。同年12月、大政翼賛会はこの歌を「国民の歌」に指定、その後、玉砕の発表ごとに放送されました。

 しかし、歌詞にあるような天皇崇拝が、民衆のあいだに昔からあったわけではありません。

 大和大王家が豪族たちを征して支配を確立するのは壬申の乱(672年)によってです。乱で功績をあげた大伴御行(みゆき)は「大君は神にし坐(ま)せば」で始まる2首を残していますが、天皇を神と文字で表現されるのは天武天皇以降のことです(直木孝次郎『日本の歴史2・古代国家の成立』)。

大極殿
(奈良時代の都・平城宮に復元された大極殿)

 家持の生きた奈良時代は、権力闘争がはげしく、家持もまきこまれ、因幡や薩摩へ左遷され、晩年はナンバー3の中納言までのぼりつめますが死後に官位をはく奪されました。権力闘争に生き残る、そのための天皇への忠誠の表明がこの長歌なのです。
 しかし、家持は一方で、防人の歌もつくり編集しています。編集した一つが次の歌です。

 防人に 行くは誰(た)が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(ものも)ひもせず 〈防人に行くのは、どなたの夫と悲しみもなく聞く人を見るとうらやましい〉

 防人の悲しみをうたったのが家持であることも、きちんとみておくことが大切です。

 貴族層はごく一部にすぎず、民衆は天皇崇拝とは無縁でした。平城京の人口は約10万人、貴族は百数十人、下級役人は数千人と推定されています。鎌倉から江戸時代まで、天皇の存在すら多くの人は知らなかったのです。天皇崇拝が強められるのは、明治になって絶対主義的天皇制が成立してからです。(喜)
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戦争と平和 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2019/05/04 16:25
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・メーソンでも嫌われ者
・実は貧乏
・脱税の常習犯
・金の糸でググるなw
・一族の富は、こいつのジジイがヒロポン売りまくったから
・まじのヤクザ
・ナチ須
・昭和大の恥晒し
・本家の病院からは追放状態

業績/\4714/\北朝鮮スパイ/\配当/\船城カーサービス/\厚生労働省/\賃金構造基本統計/\令和元年/\和田政宗/\財務省文書改竄/\9984/\安倍晋三/\加計萩生田BBQ

  (赤尾光治 平野滋紀 042―368―1359 )





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