◎地図は語る “銃剣とブルドーザー”で普天間基地はつくられた

 「(沖縄県の米軍基地)普天間は日本で二番目に危ない空港(一番は伊丹空港)と言われていますが戦後の基地開設時は、周囲に畑と森しか無いような場所でしたが徐々に基地周辺に多くの人が移り住んで来ています。良くテレビに出る小学校も後からあの場所に建設しました」

 これは、このブログ「トヨタで生きる」に寄せられたコメントです(2012年5月15日アップの「米軍基地をなくすのは簡単なこと」の記事に対し)。これに対しブログでは、「米軍は、“銃剣とブルドーザー”で沖縄県民の土地を基地にした」(2012年6月2日アップ)と反論してきました。

 私たちの反論が正しかったことは、地図が雄弁に語っています。16年7月に発行された『地図がわかれば社会がわかる』(田代博・日本地図センター地図研究所長著、新日本出版社)に、2枚の地図が掲載されていました。

 1枚は、普天間基地がつくられる前の1921年発行の国土地理院の2万5000分の1の地図です。もう1枚は、普天間基地がつくられた後の1974年の地図です。

30 普天間 新旧地図


 比べれば、一目瞭然です。「周囲に畑と森しか無いような場所でしたが徐々に基地周辺に多くの人が移り住んで来ています」ということは成り立たず、米軍は、“銃剣とブルドーザー”で沖縄県民の土地を基地にしたことがよくわかります。

 滑走路こそ畑と森だったようですが、その南側や東側に広がる集落は、基地の中に完全に消えています。2枚の地図をコピーして重ね合わせるとさらによくわかります。
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沖縄 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2016/09/14 08:31
コメント
No title
普天間基地周辺の学校設立時期
・沖縄県立普天間高等学校・・・1946年(昭和21年)
・宜野湾市立大山小学校  ・・・1946年
・宜野湾市立宜野湾小学校・・・1946年
・宜野湾市立普天間中学校・・・1946年
・宜野湾市立嘉数中学校 ・・・1962年(昭和37年)
・沖縄県立中部商業高等学校・1965年(昭和40年)
・宜野湾市立普天間第二小学校・1969年(昭和44年)
・沖縄国際大学 ・・・1972年大学設置(1959年創立)
・宜野湾市立大謝名小学校・・1976年(昭和51年)
・沖縄県立宜野湾高等学校・・・1981年(昭和56年)
・宜野湾市立志真志小学校・・・1982年(昭和57年)
・宜野湾市立宜野湾中学校・・・1986年(昭和61年)
・沖縄カトリック中学・高等学校・1994年(平成6年)
・宜野湾市立長田小学校・・・1999年(平成10年)
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/610475/515571/83643992
No title
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/pageRedirect.php?url=/2556/2581/2582/2008.html
戦前、この地域は数集落が点在する、甘藷等の栽培が行われていたのどかな農業地帯でした。しかし、1945年4月に米軍による沖縄占領と同時に接収され、米陸軍工兵隊が本土決戦に備えて滑走路を建設しました。
「国破れて山河あり」と故事にありますが、戦争が終結し避難先や収容所から帰郷すると、そこには昔日の面影もなく、米軍の前線基地が建設され、立ち入り禁止地域になっていました。戦後は基地の周囲に張り付くように、無計画に住宅が建設されました。その結果、いびつな街がつくられ、今日に至っています。



宜野湾市は「のどかな農業地帯」「戦中の1945年4月に接収」と書いてますね。
戦中の米軍が撮った航空写真は緑ばかりで家が見えないのが一目瞭然なんで出なくなってますね。
No title
笑えますね。戦後建てられた小中学校をたくさん並べていますが、”銃剣とブルトーザー”で普天間基地がつくられたために、基地周辺にしかつくれなかったのです。基地がなければ、いい場所に学校はできたのですね。
 アメリカ軍から事実を隠したいコメント者
No title
共産党「地元の宜野湾市ののどかな農業地帯とかいった意見は無かった事にして黙っとこ」
No title
普天間第2小学校は、前から移転の話が出ている
のに、基地反対派が基地の危険を訴える材料
として、移転に反対しているんですよね。
子どもたちの安全より、戦略を優先するのは
異常です。
No title
真実の目が曇ると読図できないのですか?

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