◎オバマ大統領は広島で何を語ったのか

 アメリカの現職大統領として初めてオバマ大統領が5月27日、広島を訪れました。新聞、テレビには、オバマ大統領が被爆者を抱きしめる感動的な写真、映像があふれました。

 原爆投下から70年余。余りにも長い年月が流れました。現在も核兵器は世界9カ国に約1万8000発もあります。そのなかでの大統領の広島訪問は、確かに核廃絶の前向きの一歩になったといえるでしょう。平和記念公園でオバマ大統領は約17分演説しました。新聞で全文を読みました。

 「なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか? 私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました」

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(原爆ドームには、子どもたちや世界の人々が訪れます)

 こう始まって、戦争の起源などにもふれ、「私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います」などと語りました。

 その基調は、大統領就任直後の2009年4月5日、チェコのプラハで次のような語った演説以上のものではありませんでした。

 「核保有国として、核兵器を使用したことがあるただ一つの核保有国として、米国は行動する道義的な責任を持っています。私たちは一カ国ではこの努力を成功させることはできませんが、リードすることはでき、始めることはできます」

 世界に感動を与え、ノーベル平和賞も受賞しました。大統領の8年の任期があと8カ月ほどしか残っていないのに、核廃絶の道筋をリードすることをオバマ大統領はできませんでした。

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(平和記念公園にある峠三吉の詩碑)

 なぜでしょうか? オーストリア政府が提唱した「核兵器禁止条約」への賛同は107カ国に広がっています。しかし、アメリカなど核保有国は、「核抑止力」論から「段階的アプローチこそ核軍縮に向けて前進するための唯一の実際的な選択肢」として条約の国際交渉に反対しているからです。

 しかも日本政府は、被爆国でありながら核兵器禁止の国際交渉開始を求める決議案に、この20年連続して棄権しています。賛成する国が圧倒的ななかで、安倍政権も棄権してきたのです。

 言葉や演説で核兵器をなくすといっても、反対の行動をしていては前進しないでしょう。オバマ大統領の広島演説も、メディアや識者が指摘するように、具体的な提案はありませんでした。

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(原爆資料館)

 G7首脳会談に合わせてオバマ大統領が広島を訪問したのは、1時間ほどの短い時間でした。原爆資料館の見学は、そのうちの10分ほどだったようです。オバマ大統領の演説に同席した日本被団協の坪井直代表委員は91歳です。被爆者は高齢化し、残された時間は少なくなっています。

 私は、これまで何度も原爆ドームに一番近いホテルに泊まり、早朝から平和公園を歩いて記念碑を巡り、資料館を見て回りました。原爆ドームを見上げた日々を思い起こし、核廃絶はまったなしであり、具体的行動こそが必要ではないかと考えました。
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戦争と平和 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2016/05/28 15:46
コメント
No title
核兵器禁止条約とは?

→新規に核開発を開始している北朝鮮が賛成国であるように新規開発を止められず既存の核保有国の抑止力を制限して新規開発をしやすい体制を事実上作っている条約です。

共産党はなんで賛成してるの?

→伝統的に共産圏の国家が核開発をするのは容認してきた歴史があり赤旗の号外で「例え死の灰の問題があろうとも、大の虫を生かすために、共産党員はソ連の核実験を支持するように」などの実績があります。
唯一の被爆国で原水禁と原水協という2つの団体に分裂しているのは共産党が主導した原水協はソ連系の核開発を容認してきたのが原因です。
表面上は原水協もいかなる国も核開発を許さないと言っていますが未だに無駄に組織が分裂しているのは色々と理由がありそうですね。
No title
原水協のホームページから 

 アメリカとソ連(当時)をそれぞれの中心とする二つの軍事ブロックが対立し、核軍備競争を続ける中で、原水爆禁止運動は、核戦争阻止、核兵器全面禁止、被爆者援護連帯の三つの基本目標を掲げて、署名、平和行進、ビキニデーや世界大会の開催などに取り組み、世論を広げました。

とりわけ、1960年代にはじまったアメリカのベトナム侵略戦争が段階的に拡大され、核兵器が使われる危険が高まる中で、日本原水協は、「ベトナムを第二の広島、長崎にするな」をスローガンに、全国、全世界の反戦平和運動と連帯して活動しました。

 この時期には、アメリカとソ連が協調して既存の核保有の特権を守り、後続に道を閉ざそうとする複雑な動きも起こりました。1963年に結ばれた部分的核実験停止条約、1970年発効の核不拡散条約(NPT)などがそれです。また、1960年代には、ソ連の「平和運動」が日本の運動に「部分核停条約」の支持を押し付け、この問題をめぐって世界大会が分裂するという不幸なできごとも起こりました。

 このことは今日まで、それぞれの国の運動が自主性を守り、一致点で協力することの大切さを教えています。
No title
原水禁のホームページから

ところが革新勢力の運動の高揚や東西対立の激化などを背景に、「平和の敵・アメリカ帝国主義の打倒」、「平和を守るソ連社会主義の核兵器・核実験支持」、「軍事基地反対、民族独立、安保反対を中心課題とせよ」といった主張をする勢力が原水禁運動を牛耳ろうとしました。運動に参加する幅広い層の「いかなる国の核実験・核兵器にも反対する」との要求や意見と真っ正面から対立し、それまでの原水禁運動の組織(原水協)は大きく混乱し停滞して、1963年夏の長崎大会はついに中止となり、組織は分裂しました。

そうした中で、「いかなる国の核実験にも反対」する確固たる信念をもった広範な層が集まって、1965年2月、「原水禁(原水爆禁止日本国民会議)」を結成しました。世界の平和運動家バートランド・ラッセルなども「いかなる国の核兵器にも反対する運動でなければ平和運動ではない」と主張して原水禁の見解を支持してきました。
No title
分裂させた原水禁の運動は、冴えないですが。

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