◎豊田市の戦争遺跡を訪ねる その③

 昼休憩を兼ねて豊南交流館で戦争体験者の証言を聞いた。80歳代、90歳代の人々で、「どんなことがあっても戦争だけは、2度としてはならない」というのは共通の証言だった。

 私が注目したのは、トヨタが軍需工場だったという話だ。経営権を軍需大臣が握り、トヨタ自動車の創業者の豊田喜一郎は生産責任者だったという。トヨタの工場は、「護国第20工場」と呼ばれ、軍用トラックを生産していた。

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(戦争体験者の証言を聞く)

 昨年3月、豊田喜一郎を主人公にしたテレビドラマが放送されたが、喜一郎の国産初の乗用車という夢は戦争のためにかなわなかった。トヨタは、東海飛行機株式会社をつくり航空機づくりも考えていたそうだ。

 戦後、アメリカ軍の資料が見つかり、トヨタが核模擬爆弾の爆撃を受けたのは、トヨタが航空機製造と分類されていたからだそうだ。

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(あいさつする日本共産党の本村伸子衆院議員)

 2年前に100歳で亡くなったトヨタの豊田英二・元社長は、豊田市平和を願い戦争を記録する会などでつくる「豊田市平和をねがう戦争展」実行委員会に資料提供をしたことで知られている。

 その英二氏の著書『私の履歴書・決断』(日本経済新聞社)では、「第2次世界大戦最後のトヨタ爆撃であり1週間続いていたら挙母の町と刈谷の工場群を焼き払う計画が存在していたことを知った」と書いている。

 もし、戦争があと1週間続いたなら、現在の豊田市とトヨタはどうなっていたか分からないという話が非常にリアルに感じた。現在のような世界1の自動車メーカー、トヨタは存在していなかっただろう。

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 この記事は、7月9日アップの予定でしたが、都合により前日にアップしました。
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戦争と平和 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/07/08 06:18
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