◎豊田市美術館で唐招提寺の障壁画展
奈良市の唐招提寺の障壁画を知っていますか? 障壁画は、文化勲章受章者で、日本を代表する画家、東山魁夷(1908~99)の最大の作品といわれています。豊田市美術館で4月22日(土)~6月11日(日)まで障壁画展が開かれます。
68面からなる障壁画は、唐招提寺の御影堂の襖(ふすま)絵として、10年もの歳月をかけて描いたものです。公開されるのは、鑑真を偲ぶ開山忌舎利会(毎年6月5日~6月7日)の3日間だけです。国宝「鑑真和上坐像」とともに公開されます。
このため障壁画は、時折、他の場所で公開されます。知人が東京の百貨店で観賞しようとしたところ、8階の会場までの階段に行列が続き、あまりの人の多さにあきらめたといいます。

(新潮文庫の『唐招提寺全障壁画―東山魁夷小画集』)
唐の高僧鑑真は、戒律を日本へ伝えるよう懇請され、暴風などで渡航に相次いで失敗し、6度目の天平勝宝5年(奈良時代の754年)にやっと成功しました。
そのため両眼を失明しました。国宝「鑑真和上坐像」は、失明した鑑真を彫り込んだものです。東山魁夷は、鑑真の苦難の渡航を描くために、日本海の海岸をスケッチして歩き回りました。
激しい波が岩礁に押しよせて砕ける様などを描いています。薄いグリーンを基調とした透明な質感の襖絵は、鑑真の心のなかに迫るもので、見るものに静かに立ち上がってくる感動を与えます。

(新潮文庫の『唐招提寺全障壁画―東山魁夷小画集』から)
奈良時代は、「青丹によし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」と平城京の栄えた様子が『万葉集』に歌われていますが、実際は政変が続いた権力闘争の時代でした。聖武天皇は、出家までして仏教に深く帰依しました。
仏教は、神道とは違って、いかに生きるべきかという哲学があり、権力闘争からの救いを聖武天皇は求めていたといわれています。鑑真は、退位して上皇になっていた聖武上皇に大歓迎されました。
障壁画展を鑑賞する際は、『唐招提寺全障壁画―東山魁夷小画集』(新潮文庫、税抜き810円)を事前に読んでおくと参考になるでしょう。
68面からなる障壁画は、唐招提寺の御影堂の襖(ふすま)絵として、10年もの歳月をかけて描いたものです。公開されるのは、鑑真を偲ぶ開山忌舎利会(毎年6月5日~6月7日)の3日間だけです。国宝「鑑真和上坐像」とともに公開されます。
このため障壁画は、時折、他の場所で公開されます。知人が東京の百貨店で観賞しようとしたところ、8階の会場までの階段に行列が続き、あまりの人の多さにあきらめたといいます。

(新潮文庫の『唐招提寺全障壁画―東山魁夷小画集』)
唐の高僧鑑真は、戒律を日本へ伝えるよう懇請され、暴風などで渡航に相次いで失敗し、6度目の天平勝宝5年(奈良時代の754年)にやっと成功しました。
そのため両眼を失明しました。国宝「鑑真和上坐像」は、失明した鑑真を彫り込んだものです。東山魁夷は、鑑真の苦難の渡航を描くために、日本海の海岸をスケッチして歩き回りました。
激しい波が岩礁に押しよせて砕ける様などを描いています。薄いグリーンを基調とした透明な質感の襖絵は、鑑真の心のなかに迫るもので、見るものに静かに立ち上がってくる感動を与えます。

(新潮文庫の『唐招提寺全障壁画―東山魁夷小画集』から)
奈良時代は、「青丹によし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」と平城京の栄えた様子が『万葉集』に歌われていますが、実際は政変が続いた権力闘争の時代でした。聖武天皇は、出家までして仏教に深く帰依しました。
仏教は、神道とは違って、いかに生きるべきかという哲学があり、権力闘争からの救いを聖武天皇は求めていたといわれています。鑑真は、退位して上皇になっていた聖武上皇に大歓迎されました。
障壁画展を鑑賞する際は、『唐招提寺全障壁画―東山魁夷小画集』(新潮文庫、税抜き810円)を事前に読んでおくと参考になるでしょう。
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まーた、取材や裏付けも無しにフェイクニュース垂れ流してる。